も近いですし」
「どうか気を悪くなさらないでくださいね」
「もちろんです」
ひゐろは、笑顔を見せた。
小夜は続けた。「立場というものは、変化するものです。かつて仲居として働いていた同僚が八百屋に嫁いだのですが、私がその八百屋に買い物に行けば同僚ではなく客になるでしょう。世の中は往々にしてそういうものですから、今ある立場で物事を考えてはならないのです。もっともひゐろさんは仲居部屋にいるだけで、同僚ではなくお客様ですし」植髮
ひゐろはくすりと笑い、
「……私も接客業をしているので、小夜さんのおっしゃりたいことはよくわかります。社会は立場で繋がっているけれど、いつ状況が変わるやもしれません。どんな方に対しても横柄な態度にならぬよう、私も気をつけなくては」
「本日も、お出かけでしょうか。もしよろしければ、旅館にあるをお貸しいたします」
「……それは、助かります!」
その後、ひゐろは八時頃に旅館で朝食を食べ、九時に借りたを履いて旅館を出た。
京橋では雪で立ち往生する車があり、が後ろから車を押していた。
「エンジンがかからない。とても竹川町の停車場までは、無理ですよ」
という声がした。
その様子を見てひゐろは、“オートガールの仕事は、しばらく休みになるかもしれないな”と思った。ひゐろは今日も、をあたることにした。
向かったのは資産家一覧に掲載されている、実業家・岩田喜八郎の邸宅である。
邸宅は池之端にあり、英国人設計のな建物。岩田喜八郎の祖父が明治の頃に建てており、邸宅は広く知られていた。もちろんひゐろも、彼の邸宅を知っていた。
難点は、にあるひゐろの実家に近いこと。これから一人暮らしをはじめたいひゐろにとってはできるだけ、実家から遠い物件でなくてはと考えていた。
それでも岩田喜八郎であれば、以外にも貸家を持っているのではないかとひゐろは期待した。
ただ今日は雪が積もっていることもあり、京橋から乗った市電は遅延気味であった。またを履いているといえども、着物姿のひゐろは歩くのもで、岩田喜八郎の邸宅に着いた時には、正午前だった。
「ごめんください!どなたかいらっしゃいますか?」
ひゐろは門扉の前から何度か声を上げてみるものの、雪が降っていたということもあり、誰も出てこない。十五分ほど待っていたものの、あまりの寒さに引き上げることにした。
ーーーさて、これからどうするか。久しぶりに珠緒といっしょに食事でもしたいと思ったひゐろは、日本橋の松下屋百貨店へ行くことにした。
日本橋は市電が走っている程度でや車もなく、人もまばらだった。松下屋百貨店も、いつもの賑わいもなかった。
珠緒の働く下足番は地下にあるといえども劇場や寄席同様、清潔で華やかな雰囲気だった。
“やはり百貨店は素敵だな”と、ひゐろは思った。
大柄な男から下駄を受け取り、頭を上げた珠緒がひゐろの存在に気づいた。そして、珠緒は目くばせをした。大柄な男が去っていくと、珠緒がひゐろに声をかけた。
「……ひゐろ!しばらくぶりじゃない!」
「ごめんね。心配をかけて。ところで仕事が終わった後、空いている?」
「いいわよ。久しぶりに、甘味処でも行きましょう。今日はお客様が少ないので、早く上がれそうなの。十五時でいい?」
「もちろん!」
「それじゃ、十五時に百貨店前の甘味処で待っていて」
ひゐろは松下屋百貨店の近くの定食屋で食事をすませ、甘味処で珠緒を待つことにした。
十分もしないうちに、珠緒がやってきた。寒いせいか鼻先が赤い。
「百貨店で働いている珠緒を、初めて見たわ」