め、胡蝶は男の前に歩み寄った

Le 16/11/2024

め、胡蝶は男の前に歩み寄った。 「頭をお上げなさい」 胡蝶の言葉に、男は地に手をついたまま、静かに鎌首をもたげる。 男を見下ろす胡蝶の相貌に、慈愛に満ちた、暖かな笑みが浮かんだ。 「勘違いは誰にでもあります。故にそのことで、そなたを責めたりは致しませぬ」 「…お許し…いただけるのでございますか?」 胡蝶はこっくりと頷く。 「されど、いくら逆賊に見えたからというても、先程のような冷淡な態度を取ってはなりませぬ。恨みならば、謀反を起こした当人たちに向けるのが道理。 既にそれも死して、怒りのやり場がないのは分かるが、巻き込まれただけに過ぎぬ縁者たちに向けるのは筋違いというもの。特に女、子供には手を出してはならぬ」 「…は、はい!二度とこのような真似は致しませぬっ」 「分かってくれれば良いのです。──それと、礼を申します」 男は目を白黒させて「え?」と小首を 「理由はどうあれ、そなたは、ここで死した父……いえ、我が夫の為に怒ってくれたのであろう?」 「…奥方様…」 「信長公を思うそのお心を、これからも大切にして下さいませ。きっと良いご供養になります故」 胡蝶は優しくいかけると 「──さ、輿へ戻りましょう。植髮 早よう妙心寺へ参らねば、法要に遅れまする」 古沍とお菜津を連れて、男の前から去っていった。 男は上半身を起こして膝立ちの姿勢になると、くぽーっとなって、遠ざかってゆく胡蝶の背中を見送っていた。 「…まるで天女や」 胡蝶の笑顔と優しさに、男が思わず顔の表情を」 という太い声が背後から響くなり、佐吉とよばれたその男の頭がバシッと叩かれた。 佐吉が慌てて振り返ると、商人らしき、やや派手なそうな顔をして立っていた。 「だ、旦那様!」 佐吉はそのまま、身体を主人の方へ向けると 「もうご用は終わらはったのですか?良い品はございましたか? 小間物は流行りはな。 …しかし佐吉、お前こないなところで何をしておるのや? 地べたに膝なんぞ付いて」 「あ──」 佐吉は飛び上がるようにして立ち上がり、膝についた泥を軽く払うと 「いや、それがですね、この本能寺の門前にね、何と先程まで織田様の奥方様がお越しになられておりまして、 あっしはてっきり逆賊の縁の者やと思うて、いつもの調子で怒鳴りつけてしまって…。お付きの方からお叱りを受けてたんですわ」 佐吉は何とも軽快に一連の事情を話した。やのう、お前は」 やれやれと首を振る。 「で、何でそないな高貴なお方に叱られて、そのようにしそうな顔をしておるのだ?」 「それが、その奥方様というお人が、それはそれはお優しいお方で。あっしの無礼を許して下されただけやなく、 “ 信長公を思うそのお心を、これからも大切にして下さいませ ” と、にっこり微笑みかけて下さったのです」 「ほぅ、それは奇特な奥方様やのう」 「へえ、ほんに天女さんのようなお方でした」 「織田様の奥方様のう…」 主人は呟きながら、何気なく天をいだ。 すると何かを思い出したように、わっと双眼を広げて 「佐吉、そのお方は間違いなく織田様のところの奥方様やったのやな ?!」 と確認するように訊ねた。 「…へぇ、確かに信長公のご正室様やと申されておいででした」 「その奥方様はどちらへ !? 寺の中にいはるのか?」 「いいえ、あちらの方へ去って行かれました」 佐吉は蛸薬師通りを手で差し示した。 「どこへ──その奥方様はどこへ参ったのや?」 「さぁ」 と佐吉は初め小首を傾げていたが 「あ、そう申せば、妙心寺で法要がどうのと言うてはりましたけど」 思い出したように答えた。 「妙心寺で法要…。 佐吉、今日は何日や !?」 「二日でござります。六月の二日」 「……信長公のご命日や」 間違いないと、主人は確信すると、やおら佐吉を見据えて言った。 「佐吉、そなたに頼みがあるのや」 「─?」