「──ここが姫の御居間じゃ。我が嫡女の住まいとしては少々手狭ではあるが、どうじゃ濃、日々を過ごすには十分な造りであろう?」
「ええ、ほんに。どこを見ても美しゅうございます」
濃姫は室内を見渡しながら、満ち足りたような表情で頷いた。
十二畳からなる御居間は、西と南から光が取り入れられるようになっていて明るく、
六畳ずつに分かれた上座と下座をてる襖は、金泥の地に桜花、撫子、楓、萩を描いた春秋尽くしで、
透彫のには、鶴に若松菱が添えて彫られた上品な仕上がりである。植髮
襖と同じ意匠の床の間に、金砂子の小襖を用いた袋棚、違い棚には黄金の香炉や、高価な蒔絵の書道具などがきちんと並べられていた。
「居間の隣には次の間、東には台所を兼ねた土間と、最奥には湯殿も設けてある。どれも普通より手狭じゃがのう」
「いいえ、十分です。それだけあれば、不自由なく日々の生活を送ることが叶いまする」
「もっと広さを取れれば良かったのじゃが、この御座所を隠す為の樹々に、思いの場所を食われてしもうたわ」
「それも姫の為とあらば致し方ございませぬ。 ……それよりも殿」
「ん?」
「有り難う存じまする。かように美しい住まいを姫の為にご下されて」
濃姫は微笑みながら、ゆるやかに頭を下げた。
「何じゃ、先程まで気に入りの池を埋められて、不服そうな顔をしておったのに」
「まぁ、不服そうな顔などしておりませぬ。ただ…その少し、本当に無くなったのか否かが気になっただけで…」
「本当か?」
「ほ、本当にございます! それに私は、京で殿からこのお話を伺った時から、私の御座所の裏に姫の住まいを普請する旨には、
大いに賛成でございましたもの。実際に、かように立派な座所が出来上がったとあっては、池などに未練はございませぬ」
濃姫は清々しい思いで言うと
「そもそも私にとって城の水辺は、心を癒し、慰めてくれるものでした。なれど今の私には、姫がおりまする。姫が…」
「姫が今のそなたにとっての癒しであり、慰めじゃと──そういうことか?」
信長に告げられて、濃姫はって「はい」と頷いた。
「ですからもう、場所や物に頼る必要はないのです。この城の中に、姫と、姫が住まうこの隠れ御殿があるだけで、私は本望にございまする」
「──左様か」
嬉しそうに双眼を細めながら、屈託なく語る妻の面差しを見て、信長は静かに微笑んだ。
お濃も随分と母親の顔になってきた…。
信長は沁々とそう思っていた。
上手くは言えないが、雰囲気や気合いのようなものの中に、包むような暖かさを感じるのだ。
姫ことを話す時は特にそれが強く表れている。
これが世に言う母性というものなのだろうか?
女人は赤子を一人産み落としただけで、こうもがらりと変わってしまうものなのだろうか?
男には到底解らないことだと、信長は静かな微笑から一転、自嘲気味な笑みをその満面に広げた。
「…如何なされました?左様にお笑いになって」
「いや、何でもない。 そなたがそのように無欲なおなごになったのも、産まれた姫のおかげじゃなと、沁々思うておったのよ」
信長が言うと、濃姫は刹那的に目を瞬くなり、ふるふると首を横に振った。
「無欲など飛んでもない。私には望みがまだ幾つもございまする」
「…なれど、先ほど言うておったではないか。この城に、姫と、姫の御殿があるだけで本望じゃと」
すると濃姫はにっこり笑って
「その話はその話にございます。人は生ある限り、欲望からは切り離せぬもの。一つのものが手に入れば、また別のものが欲しゅうなるものです」
「では、まだ何か欲しいものがあると申すのか?」